欧米の各言語でのカリグラフィーに値する言葉は、日本では「西洋の書道」と解釈されていますが、本来はギリシャ語の「kallos 美しさ」と「graphein 書く」という言葉からきており、文字を美しく書くことを意味します。従って、欧米では日本人のように東洋の物に関しては書道、西洋の物にはカリグラフィーと使い分けることができません。
私たちが慣れ親しんでいるローマ字のアルファベットは、ローマ時代の石碑などに残されている刻字にさかのぼります。それがやがて手書きへと移行し、筆やペンを使って字を書くようになり、時代とともに伝播してさまざまな変遷をとげました。
カリグラフィーは本場ヨーロッパでは印刷技術の発達に伴い、これが文字の一般への普及につながったことは大切な事実ですが、その反面、徐々に手書きの美しさを求める心が失われ、その技術の伝承も非常に限られたものとなってゆきました。しかし、19世紀の末にイギリスの Edward Johnston エドワード・ジョンストンという人の手によって再び見直され現在に至っています。
カリグラフィーと私の最初の出会いは、それはそれは遠い日のこと。私が小学生の頃のことです。東京でカトリック系の学校に通っていたため、ヨーロッパから届いたクリスマスカード、フランス語や英語を教わったシスター方が黒板に書くきれいな文字、そして英語のペン習字の授業など、カリグラフィーをそれと知らずに接する機会がたくさんありました。小さい頃は普通の鉛筆で、高学年になるとヨーロッパから船で横浜に届けられたという貴重なペン先を使って、ちょっとだけお姉さんになった気分でイギリスの教則本を見ながら模様のようなペン使いの練習やマザーグースなどの歌を写したりしていました。
そのペン習字で習う模様を、ある先生は校内用のポスターに必ず縁飾りなどとして利用しており、後に折りあらば、私もカードを書く際にポイントの飾りとして使用していましたが、ペン習字自体はその授業がなくなると自然に遠ざかってゆきました。
私にとって人生の大きな転換となったパリ留学。その後、パリにすっかり根が生えてしまったある日、ふと、何か「私のフランスのもの」を探したくなり、試行錯誤の末に長い時間をかけて再会したのがカリグラフィーでした。
達筆であることが尊重される日本と違い、フランスではカリグラフィーに直接触れることもないままに済んでしまいがちです。日本では、この私がそうであるように、筆で字を書くことが苦手な人が多くなったとはいえ、芳名帳には必ず筆が用意されていますが、それと似たような習慣すら欧米にはありません。それほどにカリグラフィーは一般に浸透しておらず、フランスでは美術系の学校にデザインの一環としてあるレタリングやカリグラフィーの授業以外には、国立の専門の学校はおろか、認定書の類は一切ないのが現状です。それでもここ数年来、私立のアトリエや学校が少しづつでき、協会もいくつか設立され、市営のカルチャーセンターにもカリグラフィーのコースが増えて人気が出初めています。こんな状況でも、長い間まわり道した末にカリグラフィーと再会できたのは、なにか目に見えないものに手繰り寄せられたような気がしました。と、いうのは、最初にパリで手にしたペン先は、子供の頃に使っていた、船で横浜に届けられたというあのペン先と同じものだったからです。
フランスのごく普通のイメージでは、カリグラフィーというと古文書で羊皮紙に羽ペンで書いて、さらには製本までして古書の復刻でもやっているように思われがちです。そういう所で私がカリグラフィーをやっていると言うと、話しが複雑になり、今度は決まってみんな日本の書道と勘違いします。従って、私はいちいち
Calligraphie Latine カリグラフィー・ラティンヌ、つまりラテンの書道と断りを入れなければなりません。そうでないと、勝手に日本か中国の書道を想像されてしまうからです。そして日本の書道ではないと判るとフランス人には非常にガッカリされ、書道の国から来ているのになぜ?という顔をされるのです。さらに定番のように「日本の書道はもちろんなさるのでしょう?」と鸚鵡返しに聞いてくるのです。出来ないと答える私を宇宙人かなにかのように見つめる人には、「ところで、あなただってカリグラフィーなさらないでしょう?だったら私が筆で字が書けなくったっておかしくないじゃありませんか!!」と言い返す羽目に。
面白いことには、フランス人でもカリグラフィーをやっていると言うと漢字かアラビア文字を想像されることが非常に多く、なんでいまさら手で書くのかとさえ言われる始末です。ハイテクの時代ということだけでなく、これは、おそらく達筆であることを大切にする習慣が少ないことから来ているのだと思います。日本では現在でも普段から誰それは字が上手だということはよく話題になり一目置かれますが、フランスではそういうことは殆どなく、唯一、求職の際の履歴書に自筆の手紙を添えることが求められるぐらいで、それ以外に手書きが重視されるのは今では署名のみといっても過言ではありません。小切手、カード、受領書、書類、これらは日本が印鑑を用いるのと違い、必ずすべて自筆のサインですから役割は重要で、中には花押のようにデザイン性の優れたものを目にすることもあります。 でもそれはあくまでも手書きということであってカリグラフィーではありません。
いろんな書体があるんだ、世界史をまた勉強し直さなきゃ、どうしようラテン語ができない、などと、カリグラフィーを本格的に再開した当初にいくつもの壁が目の前に立ちはだかりました。とにかくはペン使いに慣れることとしても、お手本はラテン語で意味は充分理解できず、ただ書くのみ。毎日お手本を見て何枚も何枚も書き、まるで寺子屋のお習字の如く、紙が真っ黒で訳が判らなくなるぐらいの勢いでした。それから次第に一つ書体をマスターすると一つ作品を書き上げるという方法をたどっていましたが、そのうちにいろいろなワークショップに参加してプロに混じって学ぶようにもなりました。私が参加しているアトリエのワークショップでは、あくまでも和気あいあいと、経歴や年齢に関係なく家族的な雰囲気で、よく食べ、よく飲み、よくしゃべりながら続けられます。(ここが重大ポイント!!)そうしたことによって、単に字を書くだけでないさまざまなことを会得し、それがカリグラフィーを自分のものにしてゆく上での肥やしになっています。
長くやっていく間には、書体や道具の得手不得手、好き嫌いがでてきますが、常に好奇心と努力を惜しんではならないのは言うまでもありません。日本人特有の手先の器用さで、美しい字を書くだけでは本当のカリグラフィーとはいえないのです。カリグラフィーと一口に言っても、フタを開けてみると書体も道具も多種多様であり、現代カリグラフィーとなると、読むというより視覚に訴えかける作品まで内容は豊富です。そしてそれを本当に自分の物に消化しようというためには、基本をしっかりと身につけ、言語、歴史背景などの知識も侮れません。それなしには個性的で現代風なカリグラフィーを生み出すことは大変難しいと思います。
日本人がカリグラフィーの作品などを目にすると、何が書いてあるか判らないからと鑑賞をあきらめている方が多いのは大変残念なことです。漢字を読めない欧米人たちは遠慮なく視覚的な感覚から書の作品を鑑賞しています。これは書かれている内容ではなく、目に映る筆の運びやリズム感、全体のバランス、色調、素材など、見る人それぞれの好みで判断するわけです。欧米人はとにかく個人の意見をはっきり主張する傾向にあるので、好き、嫌いもはっきりしており、時にはそんな意見の中でなかなか面白い発見や発想を得ることがあります。「字」であることにとらわれない自由な鑑賞なのです。
私自身は書道はできませんが、カリグラフィーをするようになってからは、書道の作品を見る目が随分と変わってきました。以前は、自分が書けない、したがって読めない、だから判らないという方程式のようでしたが、今ではそんなことより、書のリズムや全体の構造など視覚的に感じるもの、そして古いものの場合はさらにそれが書かれた頃の背景も想像して、自分なりに楽しんで鑑賞できるようになりました。どんな形であれ自分の心に訴えかけてくれるものが一番なのです。
カリグラフィーなり書道をする場合は、何を書いているのか理解しているほうがその作品を充分に生かすためには望ましいと思いますが、鑑賞する際は、書や字に知識がなくとも、書いてあるものが読めずとも、自由ないろいろな鑑賞法があることを忘れないで下さい。
2003年1月